--伊藤バインダリーの歴史について教えてください。
(「伊藤バインダリー」社長 伊藤雅樹さん)創業は1938年、愛知県豊川市の白鳥町出身の祖父が断裁機を1台購入し「白鳥堂」という屋号で始めたと聞いています。戦争で一時休業しましたが、終戦後すぐ吾妻橋の近くで再開業しその後現在の場所、本所に移りました。紙断裁の仕事に始まり、1980年代に入り屋号を「伊藤バインダリー」に変え、広告販促物の印刷が盛んになった頃から次第に印刷物を綴じる製本業へと業態を変えていきました。
僕が生まれた当時は木造の2階建てで、家と家同士を迷路のようにつなげ、生活する場所と工場が一体となった場所でした。当時は大学ノートなどを作っており、子どもの頃はその手伝いをした記憶もあります。
小学校の同級生にも工場や店を通り抜けて家にあがるような場所に住んでいる子が多かったですね。職住近接が当たり前、といったところでしょうか。
--同級生にもそういった生活をしている方が多いと、暮らし方にも特徴があるのではないでしょうか。
そうですね。革小物屋、魚屋、肉屋...子どもの頃は個人商店で日用品を買うのが普通でした。今では商店街の中でもお店を閉じてしまったところが多く、そういう買い物ができなくなってしまって残念ですが。
そんな街なので、組合や地元のお祭りなど地域と密接に繋がることも当たり前。子どもの頃はそれが嫌だったのですが、いざ歳をとると自分も同じ道を辿っています。同級生でも家業を継いでる人が多いですね。
--伊藤さんにとって家業を継ぐのは自然な流れだったのでしょうか。
いえ、昔は家業は継がないと決めていました。親の仕事を間近で見ていて「なんで背広を着てサラリーマンとして働かないんだろう?」と疑問に思っていたくらいです。そんな反動もあってか大学卒業後は印刷会社に入り営業マンとして働きました。数年経ち仕事に自信がついた頃に「そういえば実家を継ぐ手があった」とふと考え、28歳の時に家業に関わることになりました。
--現在の代表商品「ドローイングパッド」ができることになったきっかけ、経緯はなんだったでしょうか。
当社は印刷会社の受注によって成り立っていた製本会社でしたが、2008年頃から広告業界の縮小に伴い印刷物も減り、ラインが動かない時間が増えていきました。同時に、納品仕事だけでない、私たちでなければ作れない使い手の皆さんと「握手」ができるようなオリジナル商品を作りたいと考え始め、社内で話し合いを進めていきました。しかしなかなか具体策が見つからず焦っていた頃、ちょうど墨田区の事業としてデザイナーとプランナーを紹介され、ご縁あって商品開発を始めることになりました。
デザイナーの方が目を留めたのが、私たちが紙の断裁を行う際に出る「切り落とし」をメモにして近所の人に配るという昔からあるごく日常的な行為。「それは会社の文化ですね」と言ってくださって完成したのが「ドローイングパッド」と「メモブロック」です。プロトタイプを作る段階で紆余曲折ありましたが、その甲斐もあり国内外で評価をいただくことができました。現在の商品卸先は7割が海外、国内外のセレクトショップやミュージアムショップなど、きちんとこだわりがあるお店にお取り扱いいただいています。
現在はパソコンで情報を簡単にまとめられるようになりましたが、その前の段階で紙に書いてアイデアを出し、「感性を描きとめる」ための道具として使ってもらいたい、という思いで作りました。だから実際に建築家やデザイナーの方に人気があるというのは嬉しいですね。
--オリジナル商品を展開するようになって変化はありましたか。
展示会への出展やグッドデザイン賞受賞などもきっかけに、海外のハイメゾンブランドやインテリアブランドなどからお声がけいただきクライアントワークとしてコラボレーション商品を作る機会も増えました。不思議と海外の方が反応がダイレクトにあり展開のスピードも速いです。
オリジナル商品に限らず心がけるようになったのが「きちんと、丁寧に」。ものづくりのことはもちろん、選ぶ言葉やお客さんとの関わり方、全てに通じると思います。一番大事なのはお互いの哲学の軸がぶれないようにすること、そして顔を見て対等に話をしあうこと。品質とコストの折り合いをつけることだけでなく、お互いに何を考えているか、作ったものがどのように使われるかを僕も工場のスタッフもよく考えるようになりましたね。
僕たちの場合、作るもののクオリティを高めることだけは絶対に譲れません。だから相手に丸投げにするようなものづくりだけはしたくないと思っていますし、そこを皆さんに評価いただいているのだと思います。設計図どおりに作る以上の私たちだからできること、作るものへの愛着と品質へのこだわりを持ったものづくりは今後も貫いていきたいです。